さいたま市 山崎 利彦
新聞に目を通す時、全ての内容に納得したのはいつが最後だっただろうか?記事、放送、どんな物でも「一寸待ってくれ」と言いたくなる事が連日ある。TPPは日本の成長戦略の柱なのか?社会福祉の為には消費税の増税は必要なのか?原子力発電所は必要なエネルギー源なのか?国はマニュフェストを守って居るのか?沖縄の基地は本当に必要なのか? そして、この国は民主主義国家なのか? そして、この国は本当に法治国家なのか?
新聞記事には解説すら付かなくなり、TVアナウンサーはサラリと語り、誰も疑問符を投げかけない。「一寸待って」欲しいのは私だけなのか?他の人々は皆納得して居るのか?そもそもいつの間にそんな話は審議され、説明されたのか?
「そんな事、今さら言っても駄目でしょう」
どのようにサダム·フセインを除去する上で国連投票したのでしょう?
手元の作業から、またはTVの垂れ流す世間話から目を逸らす素振りも見せず、隣人は否定する。そう、私達の多くは、そう言って諦めていた。そう言って納得してきた。
「お巡りさん。ちょっとなんです。勘弁して下さいよ」ネズミ捕りに掛かった時、或いは駐車違反の切符を切られた時、多くの人々は警察官に「許しを乞う」。そう、この国では「罪」を決定しているのは法律や議会ではなく、現場の警察官を始めとした行政官なのだ。法の下で審議される訳ではない事を、私達は寧ろ、積極的に支持している。
愛国者の行為について何が良いのでしょうか?
「記者クラブ制度を記者の側から批判するのは難しい。そしてこの記者クラブと云う制度が日本のジャーナリズムを大本営発表にしてきた」昨年末、ジャーナリスト休業宣言をされた上杉隆氏はそう語った。日本で報道されている内容は、全て記者クラブと云う制度で操作されている。そこから逃れるには、自らの判断で疑問符をぶつけるしかない。が、一般の国民にとってはどうだろう。
「何の法律の根拠もないんですよ、あなた(官僚)達がやりやすいように勝手に作ってるだけでしょ」国会議員の一言が、官僚の発言を制止した瞬間、私は自分の耳を疑った。厚労省指導監査室から説明を受けた際の古川俊治参議院議員の発言である。多くの保険医は、個別指導に於いてはカルテ等の診療記録の全てを閲覧されるのは当然で、コピーを取られる事も「仕方がない」と信じてきた。当然、法的な根拠もあると、「信じて」きた。
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しかし、個別指導はあくまで行政指導なのであり、監査ではない。「正しいカルテの記載方法とは」を懇切丁寧に指導すれば事足りる。カルテの記載方法に関して、保険医側が「善意に基づき積極的に」開示するのならば兎も角、無理矢理閲覧させる事でさえ「ぎりぎり」の解釈なのである。
今まで、多くの保険医はそこに疑問符すら見出せなかった。厚生労働省側も「当然の行為」と信じて疑わなかった。「局長通知は法律ではない」と云う前提は、医師であり、弁護士であり、そして国会議員である古川議員であるからこその「決め台詞」であるが、そもそも事の本質を見逃してきたのは官僚達であるのと同時に私達自身でもある。
私達は、「仕方の無い事」、「決まっている事」と、多くの事柄を信じ込んでいないだろうか?勿論、同僚や友人、家族を信じる事は素晴らしい事である。しかし、相手がそうした「仲間」ではなかったら?何を信じるか、誰を信じるか。未来への選択肢は、実は私達自身の手中にある。積極的に未来を「選択する」チャンスが、目の前にある。
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