当館が1996年に作成した「ユダヤ問題特集」(全10章)では、スファラディ系ユダヤ人と右派政党(リクード党)の関係について説明不足だったため、パレスチナ問題の分析に甘さが出ていた。
今回、このファイルでは、イスラエル国内におけるスファラディ系ユダヤ人の現状について更に詳しく考察して、「ユダヤ問題特集」で抜け落ちていた部分を大いに補いたいと思う。
第1章 | スファラディ系ユダヤ人と アシュケナジー系ユダヤ人の格差 |
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第2章 | スファラディムと 右派政党(リクード党) |
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第3章 | ラビン首相暗殺事件 |
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第4章 | ナショナリズムを 強めつつあるスファラディム |
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おまけ | 今日、右翼政党の支持基盤となって いるのはスファラディムである |
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おまけ | アジア・アフリカ系ユダヤ人 「ミズラヒム」 |
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■■第1章:スファラディ系ユダヤ人(スファラディム)とアシュケナジー系ユダヤ人(アシュケナジーム)の格差
●1967年の6日戦争(第三次中東戦争)後の経済的繁栄と資本主義的発展にともなって、イスラエルでは急激な社会的変化が表面化した。二代目、三代目の若者達が、清教徒的態度で国造りに励んできた初代開拓者たちにとって想像を絶したラディカルな造反を起こしたのである。
シオニズムによって建てられたイスラエルの指導者階級は、ロシア、ポーランドを中心とする東欧系ユダヤ人(アシュケナジーム)とその子孫である。これに対し中東と北アフリカのアラブ諸国から難民として流入してきたユダヤ人(スファラディム)は、イスラエル社会の底辺を形成する。建国直後は全員貧しかったため問題はなかったが、イスラエルが経済的成長を遂げると両者間のギャップは社会的差別となって表面化した。
●この「スファラディム」とは、ヘブライ語で「スペイン」の意味。本来はイベリア半島のユダヤ人共同体のことを指し、アジア・アフリカ系は東洋系(オリエンタル)という。
しかし、現在ではアジア・アフリカ系すべてを、欧米系のアシュケナジームに対比させてスファラディムと総称することが多い。その出身国は、北西アフリカ、モロッコ、アルジェリア、チュニジア、リビア、イラク、イラン、イエメン、シリア、インドなど広範囲にまたがっており、決して一つの共同体というわけではない。
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●現在、イスラエルのテルアビブの北半分は高級住宅街。一流専門店が軒を連ね、街並みはヨーロッパ風である。そして、住民のほとんどはヨーロッパ出身のアシュケナジームである。これに対し南半分は、シシカバブ(羊の焼肉)の煙が漂い、アラビア語さえ飛び交う非ヨーロッパ系ユダヤ人の密集地で、一部ではスラム化している。"南北格差"に南の住民が怒りをぶちまけるのも当然といえる状況なのである。
欧州からやってきたアシュケナジー系ユダヤ人は「エレツ・イスラエル(イスラエルの土地)にユダヤ人国家を復興させる」という高い理念に燃えていた。キブツ(社会主義的ユダヤ人共同体)運動の実践もこの人達である。
しかし、スファラディ系ユダヤ人はこの種のイデオロギーにはあまり共鳴せず、すでに築かれたイスラエルの都市周辺部に吹きだまりのように引き寄せられていった。彼らは、戦争の際には最前線に送られ、戦時ではなく平時には、国境近く、あるいはまた占領地などを開拓するために、イスラエルに集められたのであった。
●現在もイスラエル政府の要職についている人間は、ほとんどがアシュケナジー系ユダヤ人であり、イスラエル国内は支配する立場のアシュケナジー系、支配される側のスファラディ系という二重構造になっている。政治家や学者、医者などにはアシュケナジー系が多い。その反面、肉体労働者にはスファラディ系が多く、彼らのほとんどは経済的に貧しく、下積み状態(二級市民扱い)に置かれている。
ちなみに、ユダヤ教自体もアシュケナジー系とスファラディ系とに区分されており、同じ町に住んでいても異なったシナゴーグ(ユダヤ教会堂)へ足を向けることになっている。
イスラエルに移民したユダヤ人たち(出身地別統計)
上の表はイスラエルに移民してきたユダヤ人たちの出身地別統計である。
これを見れば一目瞭然。イスラエル建国とともに、どっとイスラエルに流れ
込んできた人たちは、ヨーロッパ出身の「アシュケナジー系ユダヤ人」である。
しかし、1951年頃から形勢が変わる。1951年から1956年にかけて、
続々としてアジア・アフリカ出身のユダヤ人たち、すなわち「スファラディ系ユダヤ人」たちが
イスラエルに入ってきたのである。彼らは1492年すなわちスペインから追放されて以来、
北アフリカおよびアラビア半島のアラブ諸国で生活してきた人々である。彼らはイスラエル建国の
ニュースを� �き、あたかも『旧約聖書』の預言の成就であるかのごとくにして、
希望を持ってイスラエルに帰ってきたのであった。
アラブ諸国からのユダヤ難民(1948年5月〜1967年12月)
イスラエルのユダヤ人口に占めるアシュケナジー系と
スファラディ系の比率は1972年に逆転し、以後、
スファラディ系の占める割合が増加している
●東京大学教授の鶴木眞氏は、著書『真実のイスラエル』(同友館)の中で次のように述べている。
「現在、イスラエル社会には、異なる民族的特徴を持つ2つのユダヤ人集団が存在する。
1つはヨーロッパ系ユダヤ人集団であり、もう1つはアジア・アフリカ系ユダヤ人集団である。ふつう前者は『アシュケナジー系』と呼ばれ、後者は『スファラディ系』と呼ばれている。この2つのユダヤ人集団の区別は、ユダヤ人の流浪の歴史と深い関係がある。 〈中略〉
ところで、厳密にいえば、アジア・アフリカ系ユダヤ人を一括してスファラディ系と呼ぶのは正しくない。なぜなら、ユダヤ人がパレスチナを離れた歴史は一度だけでなく、大きなものを拾っても、紀元前7世紀のアッシリアによるイスラエル王国の滅亡、紀元前6世紀の新バビロニアによるユダ王国の崩壊などの結果、紀元1世紀のローマ帝国によるパレスチナからのユダヤ人追放の前に、すでにインドを含めた中央アジア、中東、北アフリカ、イエメンには、流浪の民としてのユダヤ人社会が存在していた。
したがって、アジア・アフリカ系ユダヤ人のすべてがイベリア半島系のユダヤ人すなわちスファラディ系とはいえない。しかし、今日一般には、スファラディ系とアジア・アフリカ系とが、同義語として使われている。その理由は、アジア・アフリカ系ユダヤ人の祈祷形態がスペインで発展した教義に強く影響されているため、また現在のイスラエル社会でアシュケナジー系以外のユダヤ人を一括して呼ぶ名称が必要なためである。」
「1948年には、83万7000人ほどのスファラディ系ユダヤ人がアラブ諸国に住んでいたと推計されるが、1973年にはわずか5万人以下となっている。アラブ諸国に住んでいたスファラディ系ユダヤ人のうち、80%以上が独立後のイスラエルに流入した。このため、パレスチナのユダヤ人社会の横顔(プロフィール)は、イスラエル独立の前と後で大きく違った。 〈中略〉
都市にしろ、モシャブにしろ、キブツにしろ、スファラディ系の人々がアジア・アフリカの諸国からイスラエルへ移住したとき、立地条件がよく安全度の高い地域は、すでにアシュケナジー系の人々に握られていた。スファラディ系の人々の大部分は、社会的にも地理的にも末梢なところに置かれたのである。」
『真実のイスラエル』
鶴木眞著(同友館)
●更に、鶴木眞氏(東京大学教授)は次のように述べている。
「このように、イスラエルのユダヤ人社会は、2つの異なるユダヤ人集団から形成されているといえよう。アシュケナジー系の人が、どんなにスファラディ系のシナゴーグ(ユダヤ教会)の近くに住んでいても、決してそこにお祈りに行くことはないし、またその逆も然りである。聖書の読み方や賛美歌のメロディーなど全くちがう。宗教のことは気にとめないと言っているユダヤ人も、ヨム・キプール(贖罪日)やペサハ(過越の祭)などの重要な祭日には、にわかに宗教的になる者が多い。
私(鶴木)は、ふだんは宗教離れしているアシュケナジー系の夫とスファラディ系の妻の家庭で、ペサハのときにコメを食べてよいかどうかをめぐり、たいへんな論争をしているのを見て驚いた。夫はダメだといい、妻は食べることができると反論し、互いの主張を頑として譲らなかった。
アシュケナジー系とスファラディ系の2つのユダヤ人集団の間には、流浪の歴史を通じて結婚などの人的交流はほとんどなかったのである。」
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●また、イスラエルと聖書の問題に詳しいある研究家も、次のように述べている。
「建国当初、1961年頃のアシュケナジームとスファラディムの結婚率はたったの12%程度で、スファラディムとアシュケナジームが融合することは非常に少なかった。
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